つげ義春さん(84歳)が文化庁の芸術院会員に、新設分野「マンガ」で選ばれた。選ばれると年250万円の年金が支給されるそうだ。ニュースの写真はお元気そうで何よりだ。私の亡父と同年生まれだったと知って感慨深かった。
つげ義春さんは夢で見たものを描いたりしてシュールだと言われるが、自分はレアリズムだと書かれてた記憶が有る。例えば夢精する時など、現実より生々しく強烈な実感が有る。起きてようが寝てようが、結局は脳が見る幻想みたいなものなので、生々しい実感を伴う夢も現実と変わりないと私も思います。
以下はつげ義春さんのデビュー60周年で特集された芸術新潮の中のインタビュー記事の一部抜粋です。つげさんが何を考えて描いたのか?に、とても興味あったので買ったもので、この度、芸術院に選ばれた記事を読んで、引っ張り出してまた読んでみました。
どんな芸術でも最終的に意味を排除するのが目的だと思っているんですよ。なので意味の無い夢を下敷きにした一連の夢ものを描いたり、夢日記をつけていたりしたんです。
夢は誰もが経験するように、強烈なリアル感、リアリティが有りますから、長年こだわっていたリアリティを追及しようとするという事で夢に関心を持ち、そこから自然にシュルレアリスム風のねじ式が生まれたんです。
自分の創作の基調はリアリズムだと思っているのですが、リアリズムは現実の事実に理想や幻想や主観など加えず”あるがまま”に直視することで、そこに何か意味を求めるものではないです。
あるがまま”とは、解釈や意味付けをしない状態のことですから、全てはただそのままに現前しているだけで無意味と言えますね。
シュルレアリスムの画像が非現実的な夢のような趣きになるのは、現実の無意味性を徹底的に凝視し、それを直截に表現するからなのでしょう。
意味が無いとものごとは連関性が失われ、全ては脈絡が無くなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界で有り、現実の無意味を追及するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。
現実も夢も無意味という点で一致するので、レアリズムもシュルレアリスムも目指している方向は同じではないかと思えるのです。
ともかくリアリズムが好きですね。自分の主観による意味付けを排して、あるがままの現実に即して描くのが、、でもあるがままに認識するのは不可能であることを西洋哲学は主張してますね。どのようにしても主観が入るわけですから。
けれども自分が無我に成り主観が消えると、あるがままに認識できるんじゃないかと思えるんです。仏教の考えがそうでしょう。無我に成って主観が消えると世界はあるがままに現成すると
夢は眠ることによって自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通り無我夢中になり、夢の中での状況を対象化したり意味付けや解釈をする余裕がなくなる。そのため全てをもろに真に受けてしまい、強烈なリアル感を覚えるのでしょう
対象化出来ないとすべては意味も無く現前しているだけになり、その無意味性に直面し感応することによって、リアリティが感得されるのではないかと思えるのです
”夢の散歩”は偶然出会った男女が突然性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味が無いんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように、夢の世界に似た印象に成りますね。
現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。
(つげ義春)